大森貝塚と鈴が森処刑場跡

大森山王口〜大森貝塚(大田区)〜大森貝塚(品川)〜鹿島神社〜品川歴史館〜大経寺〜大森駅


JR京浜東北根岸線の大森駅下車
山王口から出ます。山王口はアトレ側の雰囲気と全然違いますね。

大森駅ホームにある考古学発祥の地碑
モース博士が大森貝塚を発見して100年目を記念して東京大森ロータリークラブから寄贈された。
「1877年モース博士が横浜から新橋に向かう途中車窓から発見した。土器のブロンズ像は当時発見された土器を約2倍に拡大したもの」と刻まれている。
日本人のだれもが学校で習う大森貝塚ってどんなところだろう。

池上通りを行くと歩道はこんなタイルが埋まっている。結構楽しい。
7〜8分でNTTデータビルにつきます。
データビル横に入口がある。
ここをまっすぐ入り線路際に碑があった。

電車から見えますね。
「大森貝墟」碑。1930年建立。
当時は貝塚を貝墟といったのですね。
大田区山王1丁目のこちらは、モース博士が貝塚遺跡に行く途中に発見した小貝塚の方であるといわれている。
池上通りの歩道
こんなガードもありました。
さらに7分くらいで大森貝塚遺跡庭園到着
庭園内は貝層の剥離標本をはじめ、学習広場・体験広場があり、縄文時代・大森貝塚について学習できるようになっている。よく手入れされてゴミが落ちていないのだ。
これはレプリカ

保存されている、貝塚地層。ドームで保護していた。マウスオン
モース博士が発掘した場所が確定したのは100年後:大森貝塚発掘時の「発掘補償金」に関する文書が、東京都公文書館で発見され、そこに記された発掘地の住所「大井鹿島谷二千九百六十番地」は、現在の大森貝塚遺跡庭園の位置であった。1984年以降数回発掘され、住居址や土器・装身具・魚や動物の骨などが大量にみつかっている。
1929年(昭和4年)建立。線路の方を向いています。
このあたりに、貝塚の層が見えたのでしょうかね。
エドワード・シルヴェスター・モース博士が発掘した出土品は東京大学に保管されている。
1877年6月18日腕足類研究のため来日。20日に横浜から新橋に向かう車窓から露出していた貝塚層を見ることになる。同年開校したばかりの東京大学理学部動物学生理学の教授就任要請が来る。なんともラッキーではないか。資金も地位も保証されたも同然。発掘は9〜11月にかけて行われ縄文後期の土器類を主とした石器、骨角器、獣骨、人骨など出土。この縄文というのはモース博士が報告書でコードマークとしたのを白井光太郎(1906年世界最初の植物病理学講座を東京大学開設)が和訳したもの。
1879年には報告書を編纂。そのなかで文化財保護の必要性を熱く訴えて、日本人以上に文化財の流出を悲しんだ。
1882年再来日し、陶器と民俗資料の収集にあたった。この資料は日本民俗学にとっての重要な資料となっている。
1923年の震災による東京大学の被災の報をきくと自分の蔵書をすべて寄贈。今もこの蔵書を見ることができる。
「鹿嶋神社」 交通安全、旅行安全の神様
安和二年(969年)創建。南品川常行寺の僧、尊栄法印が常陸の国、鹿嶋神宮より御分霊を勧請し当地に祀ったのが鹿嶋神社の始まり、とあった。
例大祭は、毎年10月第3土曜・日曜に行われる。この日、江戸時代から180年にわたって受け継がれている「大井囃子」が奉納される。
鹿嶋神社の通りを挟んだ隣に品川歴史館
大森貝塚から出土した土器の多くは縄文後期(紀元前1000〜2000年)のもので、国の重要文化財に指定されている。入場料¥100
中心は東海道品川宿が形成され、家並みはジオラマで、展示、見学者はその通りを歩いているような感じになる。奥に見えているのは帆船。
足もとには軒を並べる家の名前

「旧東海道品川宿を行く」は
こちらからどうぞ
「高札場」
幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札(高札)を掲示した施設で、万人の目に触れるよう、村の中心や主要な街道が交錯する交差点など人通りの多い場所に設置されていた。
1847年国防のため台場を構築することになり、御殿山や、高輪泉岳寺境内の切り崩した土砂で埋立てた。工事指揮は韮山の名代官であった江川担庵。この人物も興味深い人だ。
わずか一年で5基まで建設。担庵急逝、幕府の財政難などであとは造られなかった。
結局台場は使われることはなかったが、外国軍船に対し有効であったかは疑問。
大正に入ってから品川埠頭整備のために埋没したのがほとんど。現存する第三台場は震災復興時に陸続きとなりお台場海浜公園として解放されている。第六台場は野鳥や植物の宝庫となっており、立入禁止。
品川沖で取れる海苔は「品川海苔」として人気があった。
海苔採取時に使った下駄。高さ1mほどあった。
海底に下駄の歯がささるわけだけれど、これがほんとの”ぬきあし、さしあし”なのかなぁ。
二階に上がると、品川宿の街道沿いの二階家から街道を見下ろしているような造りになっていた。 京浜東北線のガードをくぐりまっすぐ進んで、鈴が森小学校交差点を右折。左手に大経寺が見えてくる。意外とこじんまり。ちいさな三角地帯に刑場跡があった。
それぞれの石の台はマウスオンで。処刑された有名人、八百屋お七、白木屋お駒、白井権八、丸橋忠弥、天一坊など庶民ばかり。同様の処刑場は小塚原にもある。

「首洗の井戸」
斬首の場合は、牢内で行い、その後晒し首にしたのだった。
鈴が森処刑場は、1651年幕府によって開設され1871年廃止。
1651年の検地によれば東海道に面しており間口40間(74m)、奥行9間(16.2m)であったという。(説明板から)

京浜国道にかかる歩道上から。
現在はこんなふうに三角地帯になり、両側は歩道があります。手前が京浜国道側になります。

見学後は、京急大森海岸駅を通過し、JR大森駅まで戻り帰宅しました。

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ごらんいただき、ありがとうございました。