かこたんの なんでもフリーク  外堀通を行く 四谷〜雉子橋

江戸城の外堀は明治初期に大部分が埋め立てられ、現在の外堀通(R405)となっている。歩くと○○橋、○○門などと地名が残っている。
四谷〜赤坂見附〜溜池山王〜虎ノ門〜新橋〜数寄屋橋〜鍛冶橋一石橋〜常盤橋〜鎌倉橋〜神田橋


昭文社の地図に従って四谷見附橋を渡って外堀公園に入る。 入口はここ。土手のようになっているので階段を上がります。左側は上智大の建物。
四谷見附橋の下は四ッ谷駅。地下鉄丸の内線はこの駅で地上にあがります。 サクラの見事な古木がいっぱい。サクラサポーターの支援の下に、このサクラ並木の保存が可能となっているようだ。冬季は見通しが利きますが、咲いたサクラも見たいです。
2/12は入学試験日でした。この校舎に「上智大学入学試験場」とありました。
マウスオン
進行方向右側は「真田濠」都所有で、上智大グランドとなっている。その向うを電車が走ります。奥のほうは赤坂御苑。
土手の左下は、もと「尾張名古屋藩徳川家屋敷跡」、徳川御三家のひとつで幕末の石高は61万9500石でありました。(説明板より)
やがて土手がおわり、道路に出ると、ホテルニューオータニの池泉廻遊式日本庭園へと続きます。
ホテルは1964年開業。
ホテルの場所は「近江彦根藩井伊家屋敷跡」
井伊家は加藤清正の屋敷を拝領したので、元は清正の屋敷であった。日本庭園は清正の時代からのものである。(説明看板より)
住所は紀尾井町。紀尾井町の地名は、紀州徳川・尾張徳川・近江井伊の各屋敷があったことから、きている。
「なだ万本店」
見事な石灯籠が、そこかしこにあり、当時のものが残っていると思われます。外人客だけではなく、日本人も落ち着けるようなたたずまいです。 弁慶橋方面出口は閉鎖中で、やむなくホテルを通り抜けました。
赤坂見附交差点を通過。バックは赤坂東急 山王の「日枝神社」。裏参道の大鳥居はエスカレーターつきでした。マウスオン
家康が入城した時に江戸城内の紅葉山に遷座し江戸の鎮守とした。1603年開幕後場外に移し庶民も参拝できるようになった。1657年明暦の大火により焼失。これを期に現在地に遷座した。
18日の東京マラソンの交通規制予告が電光掲示板にでていました。マウスオンでズームアップ 溜池山王駅
外堀通と首都高の交差点下にある「溜池発祥の地碑」
碑にかかれている「溜池角の小松ビル」首都高が邪魔だわ。 特許庁前交差点、特許庁は左側、中央は商船三井ビル。
「江戸城外堀の碑」 霞ヶ関3丁目あたりひっそりとありました。警察官の警備が目に付きます。
マウスオンで拡大
外堀の碑がある近くに「新聞創刊の地碑」
洋学者子安峻らが、この地にわが国初の大衆啓発紙読売新聞を創刊したのは1874年11月2日である。江戸時代の情報伝達形式であった「読売瓦版」から名をとって題号とし漢字にふりがなを施した平易な新聞として出発した・・・と書いてあります。
虎の門交差点近くに「金比羅宮」
この鳥居は銅製で港区指定有形文化財。
虎門外の讃岐丸亀藩京極家の江戸屋敷に嘉勧請された金毘羅宮の鳥居。1821年ニ奉納された明神形鳥居・・円柱には青い竜・朱雀・白虎などの霊鳥、霊獣が飾られ・・(説明文より)

青竜をマウウオン
「百度石」
願掛けの一種、お百度参りで、願いがかなったお礼に建てられたもの。願掛けの多くは病気治癒であったと言われる
裏には大願成就 願主○新道 元治元申子年(1868年)十二月吉日とあります。(説明文より)

「虎門遺跡碑」
虎ノ門交差点にあります。そしてここは一丁目一番地でした。マウスオン
内幸町駅

西新橋を通りかかったら新日本石油社屋の前に「人間に火をあたえた・・」プロメテウス像がありました。台座には「希望」とあります。

異彩を放つ「堀商店」のビル
屋上の方は中世の城のようですね。
イギリス積みのレンガアーチ橋。下は店舗がいっぱい。
右方向がJR新橋駅です。
高速下をくぐり、いよいよ銀座に入ります。
「土橋」と書いてあります。
西銀座です。東京マラソンの幟があります。 「みゆき通り」そのむかし、みゆき族なんてのがいましたね。
数寄屋橋です。都心のビル建設工事が多いのに驚かされます。
建替えなのか新築なのか?はて。
マウスオン
新数奇屋橋と書いてあります。
寄り道して、マリオンの裏側にある「南町奉行所跡」を見に行ったが、大きなビルの工事中で、その中だと言う。保護はされているようだが、入れなかった。竣工までおあづけってことですね。
江戸時代の数寄屋橋の位置。現在地とあるのはマリオンの前になります。
数寄屋橋の碑
数寄屋橋 此処に ありき 菊田一夫」とあります。数寄屋橋交差点にある小公園にあり、後にはミニ太陽の搭がありました。
外堀通にもどって
西銀座チャンスセンター
人気の宝クジ売り場です。ロトクジには今日も行列。
「銀座の恋」歌詞がかいてあります。
西銀座が舞台ということですね。
八重洲2丁目あたりです。
右は八重洲富士屋ホテル、工事中はPacific Century Groupとなっています。
鍛冶橋跡 交差点になっています。左にJRのガードがあります。
クリック
で説明文へ 
一石橋に出ます。
画像をクリックで一石橋詳細へ

日本銀行の脇を通ります。
一石橋にある「迷子知らせ石標」
満よひ子の志るべとかかれています。
画像クリックで説明文へ
常磐橋門跡 
常盤橋公園となっており、渋沢栄一像もあります。
常磐橋は歩道と車道があった。この日は団体の見学者達がいて、撮影し難かった。
常磐橋の銘 門につながる様子。
新常盤橋 もとは市電が通っていたのだ。
橋のたもとに首都高速常盤橋換気所があった。
マウスオン
日本の鉄道最古のアーチ橋とありました。
竜閑橋交差点 竜閑川(運河)が隅田川へと流れていました。
一帯は鎌倉河岸であった。
ビルに「鎌倉河岸ビル」と書いてあるビルもあり鎌倉河岸であったろうことがわかる。
「鎌倉橋」 江戸時代にはなかった橋。

鎌倉河岸の説明
江戸城改築は、家康から3代かかったそうですから、さぞ賑やかでしたでしょうね。
鎌倉から築城資材が荷揚げされていたのですね。
物揚場跡 「日本橋川水運の物揚場標石ここに出土す 往時をしのぶよすがとして後世に伝える」とあります。
物揚場とある標石はマウスオン
神田橋御門のようす。
神田橋 1925年架橋
画像クリックで説明文へ
明治30年頃の神田橋

神田橋たもとにありました。
なんと、隅田川に橋をかけた人だったのです。

太田圓三君像 とありました。
太田氏は関東大震災後の復興局で仕事をし、隅田川に橋をかけた人。
1926年相生橋・永代橋、1927年蔵前橋・駒形橋、1928年清洲橋・言問橋、の六つの橋をデザインおよび工法を変えて架橋することを計画。
1926年(大正15年)3月21日、「隅田川六大橋」の完成をみることなく神経衰弱のため自殺しました。
碑は「太田氏の功績をしのび、”先輩知友相より”1931年に建立したが戦禍にあい、1955年修復の上この地に移設した」と書いてありました。
大手町駅近くに将門の首塚があります。
通称首塚は関東大震災で崩落し存在しないが、塚の元に将門の墓と称されてきた石灯籠は現存する。(説明文より)
保存碑のうしろに、石灯籠があります。
ここは酒井雅楽頭野上屋敷の中庭でもあった。
歌舞伎の「先代萩」で知られる伊達騒動の終末 伊達安芸・原田甲斐の殺害場所である。(説明文より)
一ツ橋
もうここまで来ると内堀と近くなります。竹橋も近いです。
徳川御三家である一ツ橋家の屋敷が近くにありました。
1873年一ツ橋門撤去、現在の橋は1925年架橋。長さ19.8m、幅28mコンクリート造(説明文より)
雉子橋 川は日本橋川。
日本橋川は九段下あたりで埋め立てられ神田川が外堀に流れ込むのを防いでいました。神田川は暴れ川であったのですね。明治には掘削され神田川は外堀に通じ、日本橋川となりました。
雉子橋門は外堀から内堀に続いていたため、警備が厳重であった(説明文より)
雉子橋の手前にあった江戸城石垣と思われる遺構。マウスオン
何の説明もなかったが、多分雉子橋に関わる石垣であろう。

TOPページへ 歴史散歩目次へ PAGE TOP▲
ごらんいただき、ありがとうございました。