日暮里~谷中銀座

日暮里~本行寺~経王寺~谷中銀座~千駄木
約1時間でした。Aは経王寺、Bは谷中銀座。
日暮里駅は「日暮里・舎人線」という新交通システム鉄道建設中でややこしいことになっていました。



日暮里駅前にある太田道灌の銅像。
どうしてここにあるのか?から始まったウォークです。
道灌はこの地区と関係があったのですね。
地図にも道灌山下などゆかりの地名が残っています。
道灌物見塚の跡、一茶句碑、上野戦争遺構、などの見分に行きました。

下御陰殿橋はマニア垂涎の跨線橋
東北・上越・長野新幹線~JR在来線、
寝台特急、京成線が一望に眺められます。
本行寺(月見寺)山門
江戸時代から観月の地として有名だったので「月見寺」とも呼ばれた。
若年寄永井尚忠は、1867年に大政奉還の建白書を起草した人。
戊辰戦争では箱館まで転戦したが降伏。その後赦され元老院権大書記官などを歴任した。
山頭火の碑
「ほっと月がある 東京に来ている」とあります。
こんなのもあります。
これ大好きですが「まっすぐな 道で さみしい」
「1457年江戸城築城の折、眺めのよいこの地に「物見塚」と呼ばれる斥候台を築いたとされる。1750年本行寺住職ほかが、道灌の業績を記した碑を塚の脇に立てた。今は碑のみが残る」と記されています。
「道灌北土碑」 道灌の業績を記した碑
一茶句碑 「陽炎や 道灌どのの 物見塚」と詠まれました。
一茶はしばしば、この寺を訪れたそうです。
本行寺本殿石段脇にある「道灌物見塚跡」碑 本行寺前の、坂は「御殿坂」
本行寺を出て、御殿坂を下ると「経王寺」1666年建立。
山門は江戸時代のもの。
経王寺山門の弾痕
1868年7月上野戦争で敗走する彰義隊を匿ったため、新政府軍に攻撃された。その時の銃弾の跡。
経王寺境内にあった大きな石碑の文字、年号が見えます。
文永、正嘉、はていつの時代でしょうか。徳川時代にはこの年号はありません。マウスオンで拡大
わかりました、鎌倉時代の元号、文永3年は1266年、正嘉2年は1258年、将軍は北条氏でした。因みに江戸時代は1603年開幕です。
「ゆうやけだんだん」という階段をおりると谷中銀座です。 スーパーではなく、昔ながらの商店街。魚屋さんでシジミを買いました。真直ぐに抜けて、千駄木から帰宅。
彰義隊がらみで、三ノ輪の円通寺
1868年5月上野山で戦死した彰義隊の遺体は放置されていましたが、この寺のご住職が処罰覚悟で供養をしていた。一時咎めを受けますが、許可されて円通寺に埋葬をしました。
上野にある彰義隊碑は火葬をした場所だそうです。
円通寺前景 狛犬さんは古いですが・・。
円通寺に保存されている旧上野寛永寺の黒門。新政府軍の攻撃による、弾痕があります。
このときに寛永寺は焼失、清水殿は残りました。
境内左手にあります。全体に弾痕がありますが、特に右柱の黒い点々。全体像はマウスオン
境内にある「百かんのん」碑
秩父・板東・西國の観音像を安置した観音堂が門前にあったから通称、百観音といった。
上部に秩父・板東・西國とあり、下には「通新町 圓通寺」とあります。
裏側には「明和元年 7月」1764年、将軍は家治(10代)の時代ですね。

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ごらんいただき、ありがとうございました。